アニメにおける”ロス”とどう向き合うか
出会いがあれば別れがあるように、始まりがあれば終わりがあるものだ。
自分の好きなアニメが最終回を迎える時、人はその影響の大小に関わらず「ロス」というものに陥ることがある。
界隈によっては「○○難民」なんて呼ばれることもあるが、僕は実際に今、ロスの真っ最中だ。
去年の秋に放送した「ぼっち・ざ・ろっく!」、僕はこのアニメを、遅ればせながら2月の下旬辺りに視聴した。
斜に構える性格な僕はこの作品を「ああ、コミュ障がバンド? それなんてバンドリ小説版だよw」という偏見の塊を向けていた。
遥か昔に書いた記事でも、斜に構えて謎の偏見を持っていた。
さておき、あまりにも周りが「ぼざろはいいぞ!」と囃し立ててくるので、どこかで視聴する機会がないかうかがっていたところ、主人公である後藤ひとりの誕生日、2月21日にニコニコ生放送で一挙放送するというではないか。
これはまたとないチャンス。僕は早速放送を予約し、視聴した。
感動し、心が苦しくなった。
常軌を逸したコミュ障で対人に難があるが、超絶ギターの上手い後藤ひとりが、バンド仲間を見つけ、自らの力でのし上がっていく王道のストーリーに、どこかクスッと来るひとりことぼっちちゃんの奇行……。
青春の脇役だった彼女が、いつしか青春の主役となっていくその過程は、虚無の青春を送り、今現在も何も成し遂げられずに都会の真ん中で燻っている23歳の無職には激刺さりした。
そうして、斜に構えた逆張り民は一夜にしてぼっち・ざ・ろっく難民と化したのだ。
仲間内で何かを成し遂げるという行為、そういう経験皆無で人生を送ってきた身にこの作品は刺激が強すぎたみたいで、ロスが高じた結果「自分も下北沢に行けば、もしかしたら仲間に出会えるかもしれない……」とかいうクソキモ妄想を拗らせ、聖地巡礼という名の仲間を探す旅に出るまでになってしまった。(ちなみに、仲間は見つからないし人が多すぎてヒキニートコミュ障には刺激が強すぎたため、ろくに聖地を巡礼することもなく30分もたずに退散した。電車一本で来れる距離だったのが幸いしたか)
1か月経った今でも、結束バンド(作中でぼっちが加入したバンドの名前)の楽曲を聴くたびに悶々としてしまう。そうして考えた。「ロスから解放されるにはどうしたいいのか」
聖地巡礼もどきや、ネットの感想を漁るなど、このモヤモヤを晴らすために色々行動に移してきたが、個人的に一番効果があったのが、「作品の世界にどっぷりと浸る」ことだ。
「そりゃあアニメ見てりゃあその世界に没入してるだろうよ」なんてツッコまれると思うが、それだけじゃ足りないからモヤモヤしているんじゃないのかい?
例えば、原作コミックを最新巻まで買って読むとか、Twitterでひたすらキャラクターのファンアートをリツイートするとか、pixivやハーメルンで二次創作小説をひたすら読み漁るとか、オンリー同人イベントで同人誌爆買いするとか(自分はコミュ障なので行けない)……。
自分が「いやもうええわ!どんだけ同じ作品擦るねん!」って悲鳴を上げるまでひたすら公式orファンが広げた世界の端っこまでを旅し続けるのだ。
ここまでやってようやく、「アニメ2期が来るまで、しばらく距離を置こうかな……」という状態、すなわちロスからの解放を得られるのである。
こんなことを偉そうに語っている僕だが、ロス自体は継続中なので、これからあにまん掲示板でぼざろのダイススレでも覗いてこようかと思う。
久々に長文ブログを書いたが、これはこれで楽しいのでまた何かの機会に自分のしょうもない意見なんかを書き綴っていこうかと思う。それでは。